
本コーナーでは、上浮穴林業に尽力された方々を紹介してまいります。
第15回: 亀井 要 (旧柳谷村で村有林植林活動)
「えらい人じゃ。」これが亀井要に対する人々の風評であったと伝えられています。
亀井要は明治15年(1882)3月1日、亀井平八郎の二男として、旧柳谷村中津に生まれました。その後、東京府中野陸軍電信教導大隊に入校し、明治37年(1904)卒業、日露戦争に従軍、工兵伍長に任官、勲八等に叙せられています。
除隊後、明治41年(1908)に分家し、翌年から中津村(現久万高原町中津)書記、収入役、続いて中津村長に選ばれ、選挙ごとに再選せられ、村長として3期の長い間、村の政治にたずさわってきました。そのほか、上浮穴郡郡農会長、兵事支会長、保安組合長、畜産組合長、信用組合長などをつとめ、広く郡の政治や経済の仕事にも努力しました。こうして、昭和13年(1938)7月、58歳でこの世を去りました。
いま、ここに述べた要の業績は南海新聞社発行「愛媛県人物名鑑」にのっているものです。さらに、また大正2年(1913)発行の「全国市町村長名鑑」にも要の詳略がでていると聞いています。なるほど、「えらい人じゃ。」という当時の村人たちの声が出てくるのもうなずけます。
さて、要を語るとき欠かせない話があります。要が村長のとき、当時、中津村には12の小部落があり、その小部落それぞれに1町(約1ヘクタール)の植林を奨励し、その造成に力を入れました。費用は村費で補助し、自分の農地も提供したと伝えられています。これは後に村の大きな財産となりました。第二次世界大戦が始まり、政府は村に軍用材を調達してきました。それは15万才(1才は3.3センチメートルの角で1.8メートルの長さのもの)といわれます。もし、村有林がなければ、個人の材木を出さなければならなかったでしょう。村人たちが助かったことはいうまでもありません。すべて村有林で調達できたのです。
村の古老は、当時をふりかえり「温厚で静かな人じゃったが、えらい人じゃった。一歩、すぐれた先導者じゃった。」と語っています。
(「上浮穴郡に光をかかげた人々」より引用 愛媛県上浮穴郡旧久万町教育委員会編)